デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』木原善彦訳
刊行されたとき一部でめちゃくちゃ話題になってて、それだけにかなり期待していたのですが、いやー、、、、、、ちょうがんばってやっと読み終わった。あたしは文章を読むスピード自体は速いほうだと思うんですが、これはけっこう読み進んだかな?と思ってみると全然進んでねえー、、、と絶望するのを何度繰り返したことか。。。そのたびにもう読むのやめようかと本気で思ったのですが、訳者あとがきに終盤で語り手の境遇が明かされ、これが駄弁や衒学的独白ではないことがわかるみたいに書いてあったのでそれを信じてがんばりました。がんばったのですが、、、。
そもそもこれって小説なんですか?と何度も頭に浮かびましたが、しかし小説以外のなんなのかと言われたらそれも答えられない。。なんていうか、最初から最後までまさになに言ってる不明という形容がぴったりだった。もちろん、そのなに言ってる不明さを楽しむ小説ということなんだろうし、終盤で語り手の境遇が明かされるというのも、まあそれは嘘ではないんだけど、、、、だから何っていうか、、なんか歯切れ悪くなるなあ。要はこれが途中まで語り手が書いてる小説ってことなんだと思うけど(1週間空いたあとからごくごく微妙に文体が変わってる気がするのと、子供の名前がなんの説明もなく変わってることからここで小説内小説が終わってるんだと思うけど、この解釈が合ってるのかは謎)、だから、、何?みたいな。。Amazonのレヴューとか読むとさらに踏み込んでこの語り手はマークソン本人が女のふりして書いてるんだみたいに言われてて、その解釈にはほぉ〜んとなりつつもそうなんかなあ、、そうなの?みたいな、まあある程度なんとでもとれる余地を残してるのかもだけど。
とにかくとにかく文章がすごく読みづらかったんですよ! とか言っても岩波とかにありがちな変な術語とかがあるわけではなく、文の意味自体はぜんぶすんなりわかるんだけど、だからこそ謎の読みにくさがあって、でもこれが読みやすかったと言ってるひともいるから相性なのかなあー、、訳が悪いとかではなく原文がそもそもこんな感じのような気がするんだよな。訳者あとがきに書かれてるとおりまさにウィトゲンシュタインの著作を小説にしたらこんな感じなのかもだけど、ウィトゲンシュタインの実際の著作のほうがまだおもしろいってくらい苦痛だった。。かといってじゃあつまんないのかと言われたら一概にそう切り捨てるのもためらわれるというか、、どっちなんだよって言われそうなんだけど。時間をおいて読み返してみたら感想も変わるのかな? スルメっぽい気もするけども。
ネット上では大絶賛されてるんだけども、ほんっっっとにみんなこれ理解できてるの??? あたしがあまりにもばかだからついていけないだけ??? と疑問を抱えてしまった。。たしかにはまるひとはものすごくはまる作品だとは思うんだけど、もっと好き嫌い分かれるような気がするのだけど。。とりあえず、『これは小説ではない』も読んでみようと思います。そしたらもう一回これも感想書くかも。
以下どうでもいい話、「『ウィトゲンシュタインの愛人』を書いたのはデイヴィッド・マークソンですが、『ヴィトゲンシュタインの箒』を書いたのは誰でしょう?」(答え:デヴィッド・フォスター・ウォレス)っていうクイズ(あるいはその逆)作れるよね。もしこれをみてるなかにクイズ研究会の方がいたらこの問題使っていいですよ。むしろすでにありそうだけど。。でも、これって邦題じゃないと成り立たないよね、と思ったけど日本以外にもクイズ文化ってあるのかな。
さて、いまから演舞場にいってきます。。
追記:よく考えたら上のクイズは「デイヴィッド・マークソンが書いたのは『ウィトゲンシュタインの愛人』ですが、デヴィッド・フォスター・ウォレスが書いたのは『ヴィトゲンシュタインの"何"』でしょう?」(もちろん逆でも可)のほうがよいですね。これこそだから何。