アイワナビーユアドッグ

夢は既に終わったものもあるけどね

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ウラジーミル・ナボコフ『淡い焔』森慎一郎訳

ずっと読みたいなとは思ってたけど難解だという評価が多くてなかなか手が出なかった作品でもある。けど、いざ読んでみたら純粋にむちゃくちゃおもしろかった。もちろんそれと同時にめちゃくちゃ難しい。それは想定していたのとは違う種類の難しさで、最初に覚悟してた語句や押韻の難解さについては、この新訳では丁寧な註釈(これはキンボートではなく訳者自身の)とまるまる詩の原文を載せることにより補完されてる。詩はともかく、作中の註釈も文章自体はわりと読みやすい。けどそのぶん、もっとむきだしの難しさが提示されてる。
最初のほうの註でいきなり、詩人が自分が提供したはずの王の物語ではなく娘の死を題材に詩を書いてることについてキンボートが絶望するところがあって、その自分勝手さと無神経さが度を越してるため逆に滑稽にすら映るのだけど、でもそれはあまりにも日常的にみる光景でもあっておもわず一度本を閉じてしまった。。。古典文学や聖典、預言書/予言書のたぐいがこういうふうに恣意的に解釈されてることがあるのは言わずもがなだけど、さらにもっと身近なところでも、堂々と発言できることの少ない若いアイドルの子たちはよく暗号文書を作成するし、自分には多少なりとも学があると自負するおたくたちは嬉々としてそれを解読して解説しようとする。またアイドルが自分の意に沿わない言動をするとどうして正しい自分に従わないんだとばかりに文句を書き連ねるおたくも男女とわず多くいる。そのさまが好きじゃないというかしょうじき気持ちわる〜と思ってたが、まさにそういう光景が現出していてうわあ、、、となったのだ。けど、一歩思考を進めると、そもそもこのブログだってキンボートとたいして変わらなくない?となってしまい、この一節だけでぐったりとなってしまった。。
とはいえキンボートの語るゼンブラの話は単純におもしろくて、だからこそたちが悪い。王の逃避行やそれを追う愚鈍な暗殺者のエピソードが徐々に明かされていくのはわくわくするし、なんならゼンブラの話だけで一本の小説にもできるだろう。一見無関係なキンボートとシェイドのやりとり、王の逃避行、暗殺者の足どりの3つが少しずつ絡み合っていくのは心地よい緊張感があって、ちゃんとそれが収束する結末には良質のカタルシスがある。そしてキンボートはたしかに狂人的要素が強いのだけど、その語り口は完全な狂人のそれではない、と思わせる。詩自体や言葉にたいする的確な指摘もそうだし、完全に狂っているのならば、シェイドが王の物語を書かなかったことを認めて失望したり、ましてや最後にめちゃくちゃ自己言及的な記述をしたりなどしないだろう。そう、最後の註にはどうせおまえら俺の言うことなんてなにひとつ信用しないんだろくらいのことが書いてあって、うわあああ!!!となったのだ。。
先にある程度作品について知ってたせいもあって、途中まではあーあー、頭のおかしい老人が自分の妄想を書いてるのねというつもりで読んでたのだけど、註釈の終盤になってくるとわりとどっちが"真実"なのかわからなくなってくる。大学の教授たちがゼンブラの王の写真とキンボートをみくらべてあれこれ会話するシーンなどその最たるもので、え、妄想だったんじゃないの?と混乱が生まれる。もちろん、そのシーン自体もキンボートが書いているのだから妄想かもしれないし、なんならシェイドを殺したのは暗殺者でも、暗殺者に擬えられた精神病者でもなく、キンボート本人かもしれない。突然詩の本編に一瞬だけ出てくる"ゼンブラ"という語も、国ではなく花のことなのかもしれない(ちなみにキンボートのセリフに"ノヴァ・ゼンブラ"というのも出てくるけどこれもほんとうは花の名前)。でも、途中まではおかしな、、というかかんちがいストーカー的な記述はありつつもとりあえず"現実"のレヴェルとゼンブラのレヴェルは切り離されていたはずなのに、それが終盤になっていきなり融合してしまう。
さらに、カードを使って作品を書いてることや、"遥かな北の国"からアメリカへ亡命し英語で活動していること、そしてハリケーンの名前が"ロリータ"(キンボートはシェイドがなぜこの名前を使ったのか訝しんでるけど、読者からしたら逆にあざとさすらある)と、ナボコフ自身を連想させるメタ要素もあって、シェイドもキンボートもどっちも同じくらいうさんくさいような気がしてくる。。詩には一瞬だけ出てくるゼンブラもそうだし、膨大な註釈がつくことをみこしたような意味深な一節もあって、物語世界のレヴェルで考えるとシェイドのなかに根づいたキンボートの執念がひょろっと芽を出したのか、それともやっぱりただの偶然の符合なのかとかまた頭を悩ますけど、それはメタ的に考えればナボコフがそうなるように計算して書いてるだけのこと。となると、もはやわけがわからないけど、この物語から読み取れる無数の可能性のどれもが正解なんだと思った。もちろんナボコフ自身が設定した想定解は存在するのだろうけども。
という立場に立つと、キンボートはたしかにシェイドの友人とは思われておらず厄介払いされてはいたけれども、ゼンブラはたしかにあって、だれにも信じてもらえないままシェイドにだけその冒険譚を語り聞かせ続けたというのが、ロマンチックで好みかな。だってゼンブラあってほしいよな。と思ってしまうことがもうこの語りに飲み込まれている証左なのかもしれないけど。そうやってただただ物語に耽溺することもできるし、アイオタきもいなとかメタ的な読みも許されるし、もしこれが最近の作品だったならそれこそツイッターでいろんな考察がでまわっていたんだろうな。。
あと単純にナボコフは語学に堪能すぎますね。。すごいなあ。羨ましい。